【福岡】西鉄ライオンズの黄金期支えた仰木彬/球団発足70周年

東筑会館には仰木さんが着用したユニホームなどが並ぶ

新設・小倉球場で第1号記念アーチ

 西鉄が日本シリーズで3連覇を果たした1958年(昭和33年)、4月の開幕戦は北九州で迎えた。新設された小倉球場(現北九州市民球場=小倉北区)のお披露目となった試合で黄金期のナインが躍動した。

 相手は阪急。7回に新球場の第1号本塁打が飛び出した。記念のアーチを放ったのは仰木彬二塁手。地元の東筑高(八幡西区)から入団5年目。堅守の人が、この日はバットでファンを喜ばせた。

東筑高の甲子園初出場に導く

 「初」といえば、仰木さんは53年夏、エースで主軸を打ち、母校を初めて甲子園に導いたヒーローでもある。「ばねがあって球がめっぽう速く、打っても飛距離はずば抜けていた。当時、学校のグラウンドの奥にあったラグビーのゴールポストを遥かに越えて行った」。当時の野球部副部長だった竹尾昭さん(93)は、教え子の打力にもほれ込んでいた。

 プロ入り後も、仰木さんは母校の野球部を気にかけていた。63年夏の終わりの出来事だった。当時の主将で野球部OB会長の前田義信さん(77)が回想する。

東筑のエースで甲子園に出場した仰木投手(竹尾さん提供)

母校に激励 ボールとバット提供

 練習中にトラックに乗ってやって来た仰木さんは、大量の中古ボールとバット約10本を届け、「甲子園を目指して頑張ってくれ」と部員を激励したという。野球用具をそろえるのに苦労していた時代。プロのお古も高校生には十分だった。

 「ほつれたボールを自宅や時には授業中に縫い、練習では竹のバットしか使えなかったので、とてもありがたい贈り物でした。バットには大下、関口といった名選手の名前が入っていました。ズシリと重く、プロ選手の凄みを感じながら大事に使いました」。偉大な先輩を前に直立不動で対応した前田さんは感謝の気持ちを忘れたことはない。

名将をたたえ中間市の球場名に

 仰木さんは、西鉄の14年間で現役を終えた。その後、指導者として腕を磨き、近鉄、オリックスの監督時代には北九州市民球場でも巧みな采配を見せた。出身地の福岡県中間市では市営球場の名称を「中間仰木彬記念球場」に変え、球史に残る勝負師をたたえている。

(2021/11/30紙面掲載)

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